さて、4月27日にパルコ劇場で「あのよこのよ」観劇してきました。
感想というか、むしろメモですが、書き残しておこうと思います。
2018年4月から、2019年9月まで、すばるくんの脱退があり、
ヤス君の病気の発表があり、亮ちゃんの脱退があって、
一時期、FCからのメールがとても怖くなったことがあった。
加えて、個人的にも人生とか、どうしてもいろんなことを考えざるを
得ない時期だった。
どうしてこうも怖いのか、考えてたどり着いた結論は「終わってしまうこと」を
リアルに感じたから、ということだった。
応援しているグループが終わるかもしれない、
推しが目の前からいなくなるかもしれない、
自分の人生が終わるのかもしれない、ってことがクリアに感じて、
そこに恐怖を感じていたのだろうな、と思う。
しかし、そこから更に踏み込んで考えてみた時、何もかもいつかは終わるというのは、
前からある事実で、特に新しく生まれたことではない、ということに気づいた。
大きなことがあったから、クリアに見えて自覚してしまっただけのことだな、
と思った。
作品中の「死んでいることを自覚すると成仏してしまう」
「そういうことを考えなければ怖くない(ニュアンス)」というフサさんのセリフは、
そんなことを考えたことのある自分にはとても響いたし、共感するところだった。
今は、終わりや終わることを意識することで、
今目の前に在るものの尊さを感じることもできると思うので、
終わりや死を意識するというのも、悪いことばかりではないとも思うけれども。
(死を考えることは生きることを考えることともいうし)
ただこの作品においては、死は何かが終わることでもなく、
何かを分かつものでもなく、あのよとこのよはひとつづきなのだ、と
提示することが、作品の軽快さを出していて良かったと感じた。
それもまた1つの真実だと思うし、
それが救いになることもきっとあると思うので。
江戸から明治と時代が移る中で、社会構造や価値観もきっと大きく変わり、
登場人物それぞれがそれぞれの立場で、葛藤し、こうして生きていくのだ、と
腹を括ったり、こうして生きていくのしかないのだ、と諦めたりしたのだと思う。
同時に、大きな変化があり、中にいる人も大きく変化せざるを得ない時代設定で、
「変わらないこと」を表現していたのが、対照的で面白いと思った。
そして、時代や環境の大きなうねりの中で、自分がどう立っていくか、
悩み見つけていくというのは、現代においても、私達にも、通じる話だとも思う。
個人的にはいろいろ感じたし、考えた作品ではあったけど、殺陣をはじめ、
演出も見ごたえがあって、痛快なエンターテインメントとして、成立していたと思う。
登場人物のキャラも立っていたし、やり取りのテンポも良く、
楽しく笑う部分も多々ある作品だった。
切られた時の血の表現やラストの花吹雪など、
ところどころに歌舞伎を感じるようなところがあって面白かったなあ…。
(出展が歌舞伎で正しいのかどうかは解らないけれども)
あと、刺爪秋斎は架空の浮世絵師だが、ところどころ、実在するこの浮世絵の事を
言っているのでは?と思うところがあって、そういう元ネタ探しも楽しい舞台だった。
三味線を弾く骸骨の画*1、とか、人が亡くなってから鳥に食われていく様を描いた画*2とか、
浮世絵の世界もいろんな作品があるので。
パンフレットにて、演出の青木豪さんがミックスしたという浮世絵師の名前を
出されていたが、「解る、解る」とニヤニヤしてしまった。
もうひとつ、パンフレットでの話に触れると、この作品を作る上で
「サングラスをかけていても不自然ではない時代劇を模索した」と
いうことを書かれていたのが強く印象に残った。
見方を変えれば、「枷」とも「規制」とも言えるのかもしれない、
けれど、そういう考慮を入れ、物語の世界観に落とし込んだ作品が生まれたことは、
これからに新しい選択肢が1つ増えたように思う。
余談だが、翌日、静嘉堂文庫美術館で行われていた展覧会で、河鍋暁斎の
「地獄極楽めぐり図」を見た。
14歳で夭折した小間物問屋の娘の田鶴の追善供養の為、作られたという作品は、
田鶴が冥界を旅し、極楽往生するまでを描いたものである。
その旅路は、芝居を見たり、先祖にあったり、酒盛りをしている閻魔大王を見たりと、
コミカルでユーモアに溢れた「生き生き」としたものだった。
「あのよこのよ」観劇後に見るとまた、いろいろと感じるものがあったなあ。